龍青三・運命理学研究所

フォーチュンサイエンス

仏教 伝法

知識を超える何ものか

投稿日:

自己整備点検

以前、ある社会学者が「あらゆる人間は、その年収の5パーセントは自己管理費としてさくべきだ」との興味深い見解を示していました。

自己管理費は「健康面」と「教養面」に大別され、この両者を常に整備させるための手段として欠かせないものが「知識」です。

常に新しい知識を求めつつ、それを、自己の点検整備の道具とするのでありますが、真の自己管理を達成するための知識は、世間一般の常識とは大きく異なる、あるいはそれとは全く反対の立場をとる内容も含まれます。

一例をあげれば
「完全に利己的であれ」とか「正義を主張してはならない」など、社会的通念に反するものです。

常識的知識

確かに、知識は今日の文明を築く土台となった重要なものであるには違いないのですが、ある意味、その知識は個人の成功や幸福の達成において、あまり役に立たなくなる場合があるのです。

知識は物事を解決するための道具ではあるが、主体となるものではない、すなわち知識自体がことを判断しまた解決するようなものではないことをわきまえる必要があります。

それに、知識は時には役に立たないどころか、有害ですらある場合があるのです。

以下、『地上最強の商人(オグ・マンディーノ著)』からの引用です。

では、この願いをいかにして成し遂げるのか。わたしには大いなる目的を成し遂げるための知織も経験もなく、これまでも無知の中でつまづき、自己燐憫の淵にはまり込んだりしてきた。だが答えは簡単だ。不必要な知識や無意味な経験というものに煩わされることなく、わたしは旅を始める。

すでにわたしには、森に住む獣もはるかに及ぱぬほどの知識と本能を自然から与えられている。しかも経験の価値というものは、多くの場合、訳知り顔にうなづきながら、その実、たわごとしか口にしない老人によって、過大に評価されている。

たしかに経験は多くを教えるが、その教授法は人間の歳月をむさぼり食うのである。それゆえ、経験から特別の知恵を得るのに要する時間を考えると、かえってその価値は小さくなる。知恵を授かった頃には、もう死を迎えるだけなのだ。

さらに、経験は流行に似ている。今日成功したことも明日は役に立たず、実用性を失うかもしれない。

ここでは、知識を『経験によるもの』として強調されています。
学んだものにせよ、実際に体験して知ったものにせよ、両者ともそれは一つの経験を通して得たものに変わりありません。

宗教教義や専門分野の知識を得ることによって、それを拠り所とし安心を得たいと願ってはいるのですが、この世のどこを捜しても、自己の力以外に拠り所となれるものは、他のどこにも見つけることは出来ないのです。

成功者と呼ばれる人たちは、最初の一歩・ベイビーステップの段階において、その仕事に対しては全くの素人でした。しかし、彼らは成功の秘訣は知っていました。その秘訣とは、通常いわれるような知識とは少々異なるものです。

彼ら成功者は「まず駆けだし、そして駆けながら考えた」のです。

当然、いくつかのつまづきや障害をものともせず乗り越えて行ったのです。
彼らはそのつまづきを決して失敗とは認めませんでした。
それは単に乗り越えるべき障害にしか過ぎなかったのです。
そしてその間において、それらの専門的知識を学んでいったのです。

以上の意味において、
通常の経験的知識をあえて過大評価しないよう努め、そして「知識を越える何ものか」を探ろうとして、さまざまな知識の分野に参究する。

この態度こそ最も重要と考えるのであります。

[参考文献:唯心円成会 伝法講義]

スポンサードリンク

スポンサードリンク

-仏教, 伝法
-

Copyright© フォーチュンサイエンス , 2019 All Rights Reserved.