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真我とは

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真なる自己とは?

私は「自我」について説明する時、しばしば、それを「真なる自己」と区別、あるいは対応させて説明することがあります。

臨済禅師が言った「一無位の真人(いちむいのしんにん)」を現代語にすれば、「真なる自己」と言ってもいいでしょう。

「真なる自己」それは簡単に言えば「私」ということに他なりません。ではこの「私」とは何でしょうか?

「私」とは、「私という意識」に過ぎません。肉体は「私という意識」の借り物です。ましてや、あらゆる所有物は、生ある間の借り物であることは自明の理です。

「私という意識」は、この借り物を出現させ、これを現世色界としているのです。出現させたのは、自分の肉体だけではありません。実に自分を取り巻く宇宙のすべてをも出現させたのです。
ですから、「私という意識」は同時に「宇宙創生の意識」でもあるのです。

この意識は、すべての色界を目的格にしている主格体であるゆえに、自分自身を目的格として見る事が出来ないのです。私たちは自分の本当の顔を決して見る事は出来ません。ただ鏡に写して、こんなものか、と知るだけです。

ところで、「白我」はこの鏡の役目を果たすものではあるまいか、と私は思うのです。

私たちは、自分の意識の中に「自我の働き」を発見した時、その「自我」を鏡に写った自分を見ているように、それを見ている「真なる自己」があることを知ることが出来るのです。

これは、それを目的として把握し得たのではなく、自己が自己に目覚めたものだと言えるのではないでしょうか?

ここで私は突然、かの有名なデカルトの「我思うゆえに我あり」の言葉への疑問が氷解したのです。

すなわち「思う我」とは「自我」であり、この「自我の働き」を見ているのが「真我」なのだと…。

見ている行為があるのなら、その行為者がなくてはならないはずです。
すなわち、その行為者は「真なる自己」です。

[出典:会報Enjoh-2017年4月号-無能唱元の書斎から]

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