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悟りとは

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気軽に悟ろう……邪気払いには「サトリ」が一番

禅の世界では、「悟り」とは人生の一大事であり、その深遠なる哲理は、一生取り組んでも会得し難いものだなどと言いますけれど、私はそんなご大層なものだとは、どうも考えられません。

「悟る」と「知る」が、どう違うのかといえば、後者が単に「未知のことが解る」に対して前者は、いわゆる、灯台もと暗しというやつで、「すぐ身近にあったことに気づく」ということなんです。
もう少し詳しく言うと「それを発見し、かつ理解する」これが「悟る」ということだ、と思います。

だから、悟る素材は沢山あるのです。
それは、ごく些細なことから、それこそ人生の一大事に至るまで、さまざまなことに関して、それに気づいたなら、それは全部悟りなんです。そして禅家では、小さな気づきを、「小悟(しょうご)」大きな発見を「大悟(たいご)」と呼ぶのであります。

さて、人生における精神的苦痛の多くは、その悩みの実態に気づいていないことによって起こるもので、この姿に気づいた時、悩みは、昼間のお化けのように消えてしまうものです。
精神的苦痛とは、邪気を作り出すもとであり、この邪気が、「病は気から」の気にあたるものです。

「悟る」という行為は、この精神的苦痛を氷解させる効用があるのですから、これは優れた健康法だと捕らえても、一向に差しつかえないものと思います。

精神的苦痛を氷解するとは、悩みからの脱却を意味するものです。
ですから、これが、解脱というものでしょう。ですから、「悟った者」とは、解脱を成し得た者、すなわち悩みを払い捨てた者のことと言えましょう。

では具体的に言って、どうしたら、この「サトリ」を得ることができるのでしょうか?

自分を観察する

まず「サトリ」を私流に定義してみましょう。
それは「自己の外にある神仏を頼るのをやめて、自己の内にある神性に目覚めることこそ『サトリ』に他ならない。すなわち、頼むべきものは、外にはあらず、自己の内にこそある。しかも、その頼むべきものと、頼まれるべきものは、実に同一人で、ある」と、こんな具合になると思います。

ですから、「サトリ」を求めるという精神的行為は、世の中にある、あらゆる宗教と反対の立場を取るものであり、むしろ、その宗教と対立するものだ、と言って言えないことはない、とも思えます。

しかし、それは決して、宗教そのものを否定するものではなく、また、自分は無神論者であろうとするものでもありません。

多くの宗教の特質には、まず「自己放棄」があります。自己意識を捨てて、絶対者(それは神です)に自分自身のすべてを任せてしまおうとするのです。

一方「サトル」という行動は、自己の意識を拡大していって、宇宙創世的意識にまで高めていこう、とするものです。

そのための方法については、次号で、お話します。

悟りとは
さほど
難し
ものでなし
要は
陽気に
なることと知れ

[出典:会報Enjoh-2016年12月号-無能唱元の書斎から]

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