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自他は一如

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自他一如の心(じた いちにょのこころ)

音声書き起こし

先日、産経新聞に「ある光景」と題するエッセーが掲載されていました。このエッセーは日本新聞協会主催による「エッセーコンテスト」で優秀賞に輝いた作品であります。今回はその作品を紹介したいと思います。

あれは昨年の春のころでした。私たち夫婦と妻の友人夫婦の四人で井の頭公園での花見をした帰り道のことでした。

自宅まで散歩がてら歩いて帰ろうと万助橋の交差点にさしかかろうとしていた時、つえをついたおばあさんが信号を渡ろうとしていましたが、足腰が悪いのか、行きつ戻りっしてなかなか横断歩道を渡ることができず、顔が苦渋にゆがんでおりました。

その時、自転車で信号待ちをしていた高校生ぐらいであろう少年が、何かその老婦人に話しかけるや、何と彼女を背中におぶり、玉川上水側の歩道にゆっくりと降ろして、またこちら側に戻ってきました。

自転車のかごを見ると、そこには束を二つに折るようにした夕刊の新聞がどっさりとありました。

私たちは感動を禁じ得ませんでした。

こんな年端もいかない少年が、急いで夕刊を配達しなければならない忙しい最中に、あれほど心に余裕があろうとは。

今でも、多分「気をつけて行きなよ」と手を振っていた少年と、何度も腰を曲げ礼をしていたあのおばあさんとの光景を忘、れることができません。

以上のようなエッセーであります。まことに心温まる光景だと思います。

このような新聞少年を仏教では「菩薩」と言うのです。菩薩とは「衆生の苦悩は我が苦悩」といわれるように、他人の苦しみが我が苦しみとなるような人のことであります。

それは、いつも相手の立場に立ってものを見ていく人のことであり、「何を見ても他人事とは思えない」という心を持った人のことであります。この新聞少年もおそらく、そのような心の持ち主であろうと思います。

この少年にとれば、目の前にいるおばあさんの苦しみが他人事とは思えなかったのだと思います。おばあさんの苦しみが我が苦しみになっていたのだと思います。そこには唯々「あ一可哀想に」という心が働いていただけだと思うのです。まさに菩薩の心であります。

このような素晴らしい少年がいつまでもその心を失わず、この人生を力強く歩んでいってほしいと願わずにはおれません。

お釈迦さまの歩かれた跡には、美しい花が咲くと言われていますが、このような少年の歩む人生にもきっと見事な花が咲くことだと思います。

私はこのエッセーを読んだ後、今の日本の社会のことを考えました。

今の日本はかってない豊かで便利な時代を迎えました。しかしその反面、私たちは人間にとって最も大事な心である「他人の痛みを我が痛みとする」という心を失ってしまったように思います。

時に、困った人を見かけても見て見ぬふりをしたり或は、平気で見過ごしてしまうことが本当に多いのです。

どうして私たち日本人は、このような心しか持てなくなってしまったのでしょうか。それにはいろいろな原因があると思いますが、その一番の原因は、私たちが「いのち」の本当のあり方というものを見失ってしまったからだと思うのです。

お釈迦さまは「いのち」の本当のあり方を「縁起」という教えで、私たちに明らかにして下さいました。

それは一言で言えば、どのような「いのち」でも決して単独で存在するものはない、すべての「いのち」は相依り相関わって、みんなつながっているんだ、という教えであります。

そうです「いのち」はすべてつながっているのです。関係のない「いのち」など、この世に存在しないのです。みんな深い深いつながりを持っているのです。

それを仏教では「自他一如」と言います。
自分と他人は一つ如しだということです。そのことを昔の人は「持ちつ持たれつですね」と言っていたと思うのです。

ところが、今の私たちはどうでしょうか。
何かにつけて二言めには「それは私には関係ない、関係ない」とよく言います。私は、その言葉こそ「いのち」の本当のあり方を忘れてしまった言葉だと思うのです。そこには「他人の痛みを我が痛みとする」心は生まれてきません。

このような生き方を仏教では「我他彼此(がたぴし)」の日暮らしと言うのです。それは、自分と他人の間に垣根を作り「自分は自分。他人は他人」というような生き方のことです。

南岳山光明寺 住職による法話「自他一如の心」より
[出典:http://www.koumyouji.com/houwa/10.htm]

 

自他は一如

人間は誰でも、それぞれに悩みを持つものです。この時、自分の悩みは一時さておいて、他人の悩みをなんとか解いてあげたいと思い立つことが、菩提心(ぼだいしん)を起こすということなのです。

『人を助けるというは、人を助けるにあらず、実にわれを助けるの行なり』と、仏教には説かれています。

これは、どういうことなのでしょうか?多くの人の悩みとは、実はそのほとんどが自分についての悩みなのです。不眠症になった人で、他人の、例えばアフリカの飢餓に心を痛め、そのために夜も眠れなくなった人があるでしょうか?自分の未来を心配し、あるいは自分の過去の失敗を悔やんで、それを自分の悩みとし、眠れなくなるのです。

この自己中心的な思考を他人に振りむけた時にこそ、その人の心は休まるのです。
なぜなら、人間の心は「一時一考」という原理で働いているからです。その一瞬、考えているテーマは、ひとつだけなのです。同時に、悲しみと喜び、不平と感謝など考えることはできません。

「自分の悩み」を、その反対の「他人の喜び」に振り替えるのです。
この時、心は「悩みから喜びヘ」つまり「暗から明へ」 と変化するのです。心の中に明るさがともるのです。

「自らを燈し、火となし、世の一隅(いちぐう)を照らす光とせよ」とお釈迦さまはいわれました。
※参考 ⇒ ブッダ最期のことば~大般涅槃経

これがすなわち「ボサツ行」なのです。
そして、このボサツ行を行なっている人が、他でもないボサツそのものなのです。

私たちは、ごく身近な人を喜ばす言葉を語っているで、しょうか?人々に不快ではなく、好意的な微笑を送っているでしょうか。自分の家族や、仕事場の人々の表情が、なごむような言動をしているでしょうか?

「抜苦与楽の行」(ばっくよらくのぎょう)と仏教では、いいます。
人々の苦しみを和らげ、喜びの笑いをそこにもたらす者こそ、生きたボサツなのです。

 

およそ皆
わが意のままには
ならぬもの
それが他人とあきらむるべし

 

あきらめて
後より人を眺むれば
さてもよく見ゆ
人の情けが

[出典:会報Enjoh-2016年7月号-無能唱元の書斎から]

 

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